携帯ふっかつ

ICカードを入れ替えたら「ロックされてるので使えません」などと出たので結局お店に行って解除してもらいました。
見事に全データが削除されておりました。
これから電話してくる方は「わたしは~だ。ところで、いま大丈夫ですか?」とお名乗りください。
今日は円盤で田口さんとおしゃべりします。なんか気になってポピュラー・コーラスものの古い音源とか聴き直してみたり。
9/19 はベルサンで入江陽くんのライブにゲスト参加。
9/20から連休中はワークショップ。作品づくり&上演に向けての具体的な作業でもありますので、われこそはと思うダンサーさん、ぜひ参加してください。以下、情報です。

「瞬間の学校」  

講師:桜井圭介 / 大谷能生

日時:  2015年9月19日~23日 18:30~21:30
場所:  森下スタジオ Aスタジオ
参加費: 15,000円

主催:  Ko&Edge Co.
お申込連絡先:080 5538 6407(渡辺)
k_kunst_watanabe@yahoo.co.jp

室伏鴻さんが予定していたワークショップを僕と大谷能生さんとで実施することになりました。とはいえ室伏さんの代わりを務めることなど到底できません。せめて、僕が室伏鴻から受け取った(と勝手に思っている)サムシングをみなさんと共有・検証してみようと思います。
WSのテーマは「音楽」です。(それは僕と大谷さんがやるから、ということも勿論あるのですが)室伏鴻のダンスの特質について、これまであまり言及されてこなかったことの一つに、その「音楽」性があるように思うのです。
ところが、室伏さんがダンスにおける「音楽」を警戒していた、というのもまた事実です。それは音楽に「共同性」や「同一化」を促す側面があるからです。たしかに、ともするとダンスは音楽(のカウント、リズム、ムード)に「乗る」ことに終始してしまう。
けれど本来、音楽とは、それを聴く者の主体=身体を襲う「異物」=「他者」ではないのか? 「音楽とともに踊る」とは、ダンスという身体で繰り広げられる自己と他者(音楽)との闘争であるはずです。
ダンスする室伏鴻の身体が「エイリアン」や「ボディ・スナッチャー」であるというのは、まさに「一個の身体の内に生起する別の(容態の)身体との応答/交換/闘争」を外側から見たときの形容なのだと思います。そしてそれはまた、室伏鴻の場合、「音楽なしでみずからが音楽となる」ことが可能であった、それゆえに外からの音楽の入力を必要としなかった、ということではないでしょうか。
さて、我々「凡人」が不遜にも室伏鴻に漸近するための「大リーグボール養成ギプス」を試作するとするならば、それはなによりもまず「音楽」ではないか!?
というわけで、大谷能生さんからのコメントです。
「音楽を聴き取るちからを身に付けることで、うごくこと、うごかされることへの意識を深め、具体的に作品へとつなげてゆく。そういったワークショップを目指したいと思います。よろしくお願いします。」
(文責:桜井圭介)