4月7日-12日

「大谷能生の フランス革命」第一回の前口上を書く。マイルス本の書き下ろし部分をまとめて送信&その他のブラッシュアップ制作。坂本龍一氏にインタビューした「インビ テーション」誌が届いていたので読む。Km君夫妻と野毛の焼肉大衆→福田フライ。横浜スタジアムでベイ対ヤクルト戦(四死球からの失点で接戦だが負けって いうすっきりしない試合。那須野君はいい球投げてた。)それからなんだったかなー、いろいろ片付けたり送ったりバタバタです。

4月6日

角田俊也さんにインタビューするため上大岡へ。天気が良かったので自転車で行ってみた。旧鎌倉街道沿いに、弘明寺まで15分。上大岡まで25分くらい?  近い近い。駅ビルの高野フルーツ・パーラーで1時間半ほど。非常に勉強になった。その後、すぐ近くの立ち飲み「じぇんとるめん」へ。店内は沸き立つような 賑わいで、二人で音楽論を交換しながら(!)閉店まで飲む。まぐろ一皿200円。ビール大瓶350円。その他みんな安くて美味しい。近所の浅見酒店とタメ 張る名店也。自転車でヨロヨロ帰宅。

4月3日

マイルス本の刊行スケジュールの調整。どんどんずれ込んでいます・・・。批評単著の方がどうやら先に出そうな気配。夕方から横浜国際ホテルで母、妻、弟、 弟妻、弟妻母と食事会。和やかに爽やかに。弟の仕事先が横浜駅前だということを初めて知った。母方の実家である輪島市の震災について聞く。家自体は大丈夫 だったのだが、併設してあった元工房部分の土壁が全部落ちてしまって、片付けが大変だそうな。地震怖い。

4月2日

Tk君と始めたシュルレアリスム研究会の延長として、フランス音大に留学経験のあるUs君、偶然にも共通の知り合いであったTs君と新宿で待ち合わせて会 合。というかもっぱら飲み。色々な話が出来て面白かった。久しぶりに会ったTs君はビール一杯で酔ってしまったらしく、確かに呂律が回っていなかったが、 普通どおりだと思って喋っていたら、次の日「飲みすぎてすいません」と謝りの電話が掛かってきた。

4月1日

6月刊行予定の音楽批評の単行本のために過去原稿をチェックしなおしました。いろいろ出てきましたので、3月分は過去原稿大会で朝顔の観察に代えさせていただきます。忙しい毎日ですが、なんとか元気にやっております。今度、遊びに行きます。では。かしこ。

イントキシケイト2006.11

■二つの支持体が。

二十一世紀初頭の十年も後半に入って、今年も前世紀を支えた芸術家の多くが世を去った。ジョルジュ・リゲティは六月に死んだ。この現代音楽界きってのイ ンディヴィジュアリストは、青年期にナチズムによるホロコーストに巻き込まれ(彼の父と兄弟はユダヤ民族殲滅政策によって殺害された)、終戦によってその 悪夢から逃れたと思ったら、今度はスターリニズムによる統制と抑圧が待っていた、という、実に特殊で激烈な、しかしまさしく二〇世紀的としか言いようのな い状況を、その身一つで生き延びてきた。
転機となったウィーンへの亡命もやはり政治絡みで、1956年のハンガリー革命が鎮圧された後の反動的粛清を避けることが第一の目的であっただろう。彼 はこの革命を支持していた。鉄のカーテンを乗り越え、欧州の音楽的首都に現れたこの時、彼はすでに三十三歳だった。1956年といえば、欧州の前衛音楽家 たちが最大の盛り上がりを見せていた時期であり、50年代初頭から試みられてきたあらたな技術と技法による実験が、さまざまな音楽会で続々と結果を出し始 めていた時期であったが、リゲティはもっとも遅れてそこに入り込んだ者の特権として、その遅れを距離に変え、当時のクラシック音楽のメインストリーム ―――「形式の確立とその発展」に重きを置くシステマティックな思考法―――に囚われることなく、実に個性的で、しかし、一本の線の上には並べることの出 来ない作品をコツコツと作り続けたのだった。
いま僕の手元にあるのは、『CLEAR OR CLOUDY』と題された4CDのBOXセットで、おそらく追悼盤として編まれたものだろう。 『Complete Recordings On Deutsche Grammophon』ということで、ドイツ・グラモフォンに録音された(その多くは80年代から90年代にかけての録音だ)彼の作品が、ほぼ作曲年代順 に収録されている。「晴れても、曇っても」……「僕は自分の作品を作り続ける」と言うことだろうか、通して聴くと改めて、リゲティの作風の幅広さとそのク オリティの高さに舌を巻かせられる。もちろん、たった四枚のCDで彼の仕事のすべてをカヴァーすることは不可能であり、初期の電子音楽も、自動演奏機械に よる作品も、もちろんオペラ『ル・グラン・マカブル』もここにはない。そうそう、『ハンガリアン・ロック』も入ってないし、あと、ドビュッシーのそれ以降 もっともポピュラーな現代ピアノ曲集であろう『ピアノ練習曲集』からも二曲しか収録されていない(コンプリート?)。まあ、そもそもリゲティの業績全体を 一つのBOXだけで見渡すことなんて無理な相談だろうから、これは仕方のないことだと思う。かなり淡白な印象ではあるけれど、普通に演奏会のレパートリー に加えられそうな作品におけるリゲティの上手さを聴きなおすには十分な内容であるだろう。八〇-九〇年代の代表的な作品である二つのコンチェルトにはやっ ぱり興奮するし、オルガンのためのハード・コアな(B-BOYだと「超ハーコー」)『ヴォルミナ』をはじめて聴けたのもよかった。
リゲティはモダン・クラシックの作曲家の中でも特に、伝統的な対位法を駆使することに衒いのない作曲家であった。実際、彼の最も有名な作品である『アト モスフェール』のマイクロ・ポリフォニーは膨大かつ超精密な音群によって出来ているが、その一つ一つの音は殆ど古典的とも言える作曲技法に基づいて書かれ てあるので、演奏家にとっては出音に納得出来る(演奏自体は勿論容易なことではないが)、非常に見栄えの良いものになっていると言う。ということは、考え てみると当然なことではあるが、リゲティは演奏される前からこの作品のサウンドを頭の中ではっきりと鳴らすことが出来ていた、ということであって、オルガ ンの機能を使い倒した『ヴォルミナ』にも同じことを感じるのだけど、こういった複雑な音群を、実際の響きを抜きにして創造し、紙に書き、展開し、他人に伝 達して演奏させることが出来ている世界というのは、ものすごい変わった伝統の下に育まれた極めて特殊なものであるなあ、と思う。
音をその演奏から一旦切り離し、記号化し、紙に書いて視覚化して把握する、というやり方。つまり、音楽的イメージの支持体として紙とエクリチュールを選 択し、作者と紙とステージとの間の「距離」の中で想像力を作り出し、作品を生み出してゆくこと。スコア自体から音は聴こえない―――この欠落が特殊な想像 力=創造力をもたらし、僕たちは作品が出来た後にきっと鳴らされるだろう「音」を想像しながら音楽を「書く」ことで、個人的なモチーフを十分に展開するた めに必要となる、遅延された時間を手に入れる。こういった引き延ばされた時間を音楽制作の前提にし、その遅れを中心にして音楽を取り巻く状況を整備するこ とで、ヨーロッパの音楽は独特の発展を遂げてきた。
リゲティの作品はこうした十九世紀的なヨーロッパの伝統にがっちりと則ったものであり、彼のフルクサス的なパートはそれを逆手にとって楽しんだものであ ると思うが、これからの世界で、こういったシステムによる音楽を本当に心の底から自分のものと考え、これこそが自分の芸術だとして全面的に受け入れること が出来る人間が、どれだけ活躍することが出来るのだろうか。音楽の支持体として、「紙」という媒介物を本気で選択すること。そして、書くこととそれが鳴ら されることとのあいだにある時間的距離の中から、自分だけの創造力を立ち上げることが出来るようになること。録音の向こう側から響いてくるリゲティの作品 に僕は、こういったシステムが十分に機能していた最後の時代の音を聴き取っているように思う。
「紙切れに一つの音符を書いている時、人はまったく現実のことを考えていません。そしてまた、書いている時と聴かれる時との間のかくも長い距離がありま す……一年とかもっとながいこともある……。現実性の感覚を失ってしまうのです。ミュージック・コンクレートで素晴らしいのは、音を置いたまさにその時 に、それがスピーカーから出てくるのが聞こえることです。音楽創作の歴史の中で、私たち以前にこのようなことは決してありませんでした。写真の発明よりも すごいことです。なぜなら、写真ではカメラのボタンを押す時と現像された結果を見る時との間に、まだ少しの時間があるからです。」
こう語っているのはリュック・フェラーリである。リゲティと同じように、一貫して現代音楽のアウトサイダーであり続けたフェラーリは、「録音」というメ ディアを音楽の支持体として選び、そこに開ける可能性を「紙」による作品との可能性とのあいだに宙吊りにし続けた、二〇世紀はじめてのクラシック・コン ポーザーであった。彼はマイクによって音を集め、それを録音メディアの上に配置し、それを聴きながら作品を構成してゆく。つまり、現在多くのポピュラー・ ミュージシャンが行っている素材の録音→編集という作業のあり方をいち早く身に着けた非常にめずらしい「作曲家」な訳であるが、自分が使う音が「いまこ こ」にある、という発見は、イデアとその再表象とのあいだに永遠の差異がある(そして、その差異こそが創造の源泉である)クラシック音楽にとっては、なか なか認めがたいものであったのではないかと思う。
ぼくたちは現在、録音メディアの上に音を呼び集め、そこから好きな音を手にとって選ぶような形で、音楽を制作することが出来るようになっている。紙とい う支持体の上では厳しく制限されなければならなかった音の素材も拡張の一途を辿り、もう殆どどんなものでも、まるで手に触れたものをそのまま全部取食べる ことが出来る、すべてがチョコやクッキーで出来ているお菓子の国に住んでいるみたいなものだが、そういったある種の地獄の中で作られたものとして、カヒ ミ・カリィの新作『NUNKI』は鈍い輝きを放っている。
どんなものでも音楽として使え、また、「いまここ」がそのまま音楽が立ち上がる神聖な場所になるとするならば、ぼくたちはもう何も選ぶこともできない し、選ぶ必要もない。だがこれは嘘である。これは紙を支持体とした音楽環境が前提としている理念の単なるネガであって、録音メディアに寄せ集められた音か らはじめる僕たちは、ここにも確かな倫理と構造があることを知っている。
『NUNKI』で慎ましく、しかし、圧倒的な存在感でもって鳴らされているひとつひとつのサウンドの強さは、おそらく、紙を支持体とした音楽では決して 響くことの出来ない性質のものである。このアルバムに現れるギターや笙、石や水やエレクトロニクスのアンサンブルは、録音メディアという音楽の支持体がは じめて発見し、自分の名の下でもって世界に提出する、あらたな世界観のあらわれだ。カヒミ・カリィはその歌声によって、水音とギターが重なり合うこの場所 をはっきりと指し示し、プロデューサーたちは見事な腕前でその導きに応えている。カヒミ・カリィの声の繊細さと確さは、何よりも自分が自分として世界の中 でアンサンブルするために、こういった響きの場所をずっと求めていたのだろうと思う。カヒミ・カリィは一アーティストとして、自分の個性をまったく独特の 形で構造化することに成功したということで、このアルバムの成果をはっきりと誇りにしてもいいと思う。
ジョルジュ・リゲティの『ロンターノ』とカヒミ・カリィの『呼続』。来歴が異なり、伸びてゆく方向が異なり、その響きのあり方もまったく異なってる音た ちが、スピーカーの上ではみな、ほんのすこしだけ似た表情を見せて交じり合う。死者の平等にも似たその場所で、これからも僕は音楽を聴き、作ってゆくつも りだ。

サイゾー、2006年6月

東京サーチ&デストロイ (第2回)

今年のはじめに恵比寿みるくで知り合った吉田大輔君から、『仲間と自主レーベル立ちあげたっス。記念のパーティをやるので良かったら是非。』というメッ セージと共に、気合の入った変形フライヤーとステッカーが郵送されてきた。薄手の半透明塩ビで作られた、インフォメーションが印刷されている腕の部分を開 いていくと太陽のような形になるそのフライヤーはちょっとした物で、制作費も結構掛かってるだろう、こういった趣向は嬉しいやね。ということで、 CORNERDISC立ち上げパーティー『緑青』を覗きに吉祥寺のWarpまで行ってみた。
24:00のオープンから若干遅れて入場すると、Warpの中はもう既にB-BOY君たちで一杯で、B2Fのライブ・スペースでは『KOCHITOLA HAGURETIC EMCEES』というグループが奔放なステージで場を盛り上げている。如何にも地元の悪ガキですといった風情の彼らは、なるほど『緑青』を「ROKU? BURU」=「ろくでなしブルース」と読ませるってのはこういう事か、とこちらを納得させる雰囲気を持っていた。吉祥寺という街は23区が終って「郊外」 が始まるその接点上にあり、東京における豊かなローカリティの西の代表とも言える場所だと思う。HIPHOPはこういった「街」の息吹を十分に受け止める ことの出来るフォームであり、吉祥寺を遊び場にして育った不良たちの「音楽」が、このパーティには溢れていた。おそらく現在、HIPHOPとして括られて いるカルチャーの裾野は、一九五〇年代のモダン・ジャズのそれと同じくらいに広いだろう。その時代の気配をダイレクトに移し込んだポップ・アイコンである と同時に、シリアスな音楽的実験所でもあるHIPHOPに対するイメージは、人によって物凄い触れ幅があるのではないかと思う。それこそ隆盛期の特徴では あるが、しかし、HIPHOPもそのコアは、まさにモダン・ジャズと同じようにひとつひとつの現場にこそ存在する。TVなどのマス・メディアはむしろここ では「周縁」なのだ。
ステージには、ジェイアイエヌ(tt,mic),クモユキ(fedarboard,mic),研吾(MPC),UMU(PC,drummacine, etc)による「十三画」が登場し、長机上に整然と並べられた機材を自在に操りながら、全員が一丸となってビートをクリエイトしてゆく。四人が互いの音を 聴き合い、まるでフットサルの試合の様にそのフォーメーションを刻々と変化させながら、サンプルとプログラムとスクラッチをレイヤーして、音のフィールド を切り開いてゆく。その演奏は強力にアブストラクトかつスポーティな素晴らしいものだった。しかもグッド・ルッキングでRAPもこなせる。彼らはまだ世間 的には無名だろうが、これから必ず話題になってくるはずだ。「十三画」。僕の中では今年のブライテスト・ホープだ。
午前3時を回ってもまったく熱量が下がらず、むしろあたらしいお客でさらに混雑してきたフロアで、DJ KLOCKによるビート・ジャグリングの名人芸 をしばらく見てから、僕はWarpを後にした。もう始発が動きはじめている。駅の周りの小さな繁華街にはまだぽつぽつとキャバクラの客引き陣が立ってお り、どの店の人も何故かみなスレていないというか、武蔵野のイイ兄ちゃん風なのが妙に可笑しかった。吉祥寺サーチ&デストロイ。

サイゾー2006、7月

東京サーチ&デストロイ (第3回)

1995年から2005年にかけての十年間を振り返ってみると、僕がうろうろしていたような音楽のシーンでも色々な変化があった訳だが、なかでも興味深 かったのは、「音」という「音楽」の素材自体を問いなおす試みが演奏の現場から自然発生的に生まれ、尚かつリスナーのあいだにもそういった実験を受け入れ る姿勢が定着してきたことだろうと思う。サイン波、超高周波、超低周波、ミキサーのフィードバック音、レコードの針音、管楽器に息だけを吹き込む音などな ど……音量的にも音域的にもギリギリ耳に聴こえるかどうかのラインにある音を「沈黙」とクロスさせることで新たな音楽構造を見出そうとするその試みは非常 にスリリングであり(僕がこの連載の第一回目で取り上げたイベントで行なった『ポータブル・オーケストラ』もそのひとつだ)、こうした動きは「音響= ONKYO」という括り込みによって、ここ数年は海外からも大きな注目を集めている。今年開かれたパリでのショウ・ケースは大盛況だったそうだ。
昨年、こうした動きを支えてきたギャラリーの一つである代々木offsiteが賃貸契約の関係でクローズした。広告屋ともメジャーなレコード会社とも関 係のないこういった小空間を維持してゆくことは、東京においては特に困難であり、五年間に渡って積極的に「場」を提供してくれたoffsiteの消滅は まったく残念なことだった。が、しかしどっこい、カネにならないことをやり続けることに関しては、我々はなかなかシブトイのである。今度はミュージシャン の大友良英が、吉祥寺で『GRID605』という入場者30名限定のインディペンデント・スペースを運営し始めた。
大友良英の名前はサイゾーの読者層には、えーと、『Blue』(安藤尋監督)や『カナリア』(塩田明彦監督)、それに『風花』など相米慎二の諸作品で映 画音楽を担当し、カヒミ・カリィをメンバーに迎えてジャズ・オーケストラ作品を作り、英国『Wire』誌では毎年一回は特集が組まれるほど海外で人気が高 いギタリスト/ターンテーブリスト、といった辺りがアンテナに引っかかるところだろうか。吉祥寺駅至近の雑居ビルの一室に開かれた『GRID605』は防 音の関係もあり、弱音系の演奏しかすることが出来ないが(ちなみに「弱音」は「よわね」じゃなくて「じゃくおん」ね)5日間に渡って開催されるオープニン グ・イベントは、ネット告知オンリーなのにほぼ一瞬で全日ソールド・アウト。大友良英及びこういった「限定された空間」での音楽への注目度が高まっている ことに驚かされた。
僕は28日のステージにsimの一員として出演したのだが、GRID605は「吉祥寺駅の周辺にある」という事以外は場所の情報を公開しておらず、話に よるとお客は駅前に集合後アイマスクとヘッドフォンを装着した状態で手を引かれてビルの一室に連れて来られる。ということだったのだが、実際は勿論そんな ことはなく、スタッフとして運営に関わっている映像作家の岩井主税が駅前からお客さんを誘導してくる。この日の出演は、ギターを使った極微音フィードバッ ク演奏のユタカワサキ、オシレーター二発で部屋をビリビリいわせた大友良英、小空間での鳴りは特別に気持ちのいいアルト・サックス・ソロの大蔵雅彦、そし て我々simで、思っていたよりも充分に音圧が稼げたこともあり満足のゆく演奏だった。演奏中足を動かすと最前列のお客さんを蹴っ飛ばしてしまいそうなほ ど近い距離での音のやり取りは、やはり格別な緊張感がある。GRID605での演奏は全て岩井君によって映像が押さえているので、遠からずネット上でこの 日の僕たちの演奏も見ることが出来るようになるだろう。あらたなスペースの誕生を祝福したい。サーチ&デストロイ。